天野浩教授直筆・同研究室本田善央准教授協力執筆
ノーベル物理学賞受賞から帰国までの軌跡

1. Amano's Eye

工学研究科電子情報システム専攻 教授 天野 浩

2014年10月7日、日本の夕方ころ、私はセントレアからトランジットのフランクフルトに向かう飛行機の中にいた。目的は共同研究を行っているフランス企業との打ち合わせである。毎年その時期になると大学本部や新聞記者の方から赤﨑先生がノーベル賞をご受章された際のコメント依頼があり、発表がそのころであることは何となく頭の片隅には入っていたが、毎年のことなので正直に言えば少々食傷気味であり、発表の正確な日程はまったく把握していなかった。

フランクフルト空港についた私は、パスポートコントロールを抜けた後、少し時間があったのでPCを開けてgmailを見たところ、たくさんのメールが届いていた。タイトルにはどれも“おめでとう”、とだけ書いてあるが、その時には何がおめでたいのかは理解していない。娘のメールもあったので、それだけ開いてみると、“パパと一緒に映っている写真、記者の人に渡してもいい?”、とだけ書いてある。少々寝ぼけていた私は、賞のこととは結びつかず、“いいよ。でも、何かあったの?”、と返した。他のメールを開ける時間がなく、次のリヨン行きの便の搭乗時間になったので、それ以上のことは考えず飛行機に乗り込んだ。

リヨン空港についたら、出口のところで、日本人らしい記者の方々が数多く待っておられる。ここで漸くノーベル賞の発表のことと結びつき“ひょっとして赤﨑先生がご受章されたのか。それならば、毎年準備している受賞のコメントを思い出さなくては”、とも考えたが、もし関係がなく、芸能人の方の取材ならば、“自分から聞くのも見当違いか”、などと思い直して通り過ごそうとした。その時、通常は出迎えなど必要なく一人でホテルに向かうのだが、フランスの共同研究先の方が待っておられるのが目に入った。記者の方が“天野さん、天野さん”、と声をかけていただいたのと、共同研究先の方が、”You do not understand what’s happened. You got the Nobel Prize.”、とおっしゃったのが、どちらが先だったか思い出せない。最初に“Really?”、と言ったのは覚えている。その後、出口から少し離れ、記者の取材を受けたが、赤﨑先生ご受章のコメントのみ準備していたので、気の利いたコメントが全く出てこない。

空港では邪魔になるので、ということで共同研究先の方にグルノーブルのホテルまで送っていただき、ホテルで取材ということになった。車中、どのようにコメントすべきか考えたが、やはりまとまらない。ホテルでの取材ではテレビ局ごとに行われた。日本との会話は基本的に少々時間がかかるので、なかなか慣れない。自分の声が聞こえる場合もあれば聞こえない場合もあり、またモニターで日本の相手のキャスターの方の様子がわかる場合もあれば、イヤホンからの声のみで会話する場合もあり、“局によって違うのか”、などと妙なところに感心している自分に気が付く。その時の様子を記者の方が撮っていただき、後で送っていただいたのが次の写真である。最初ホテルの支配人の方が部屋を準備していただいたが、深夜になったので場所をホテルの玄関前に移して1時ころまで行った。深夜の取材の最中に、ある記者の方から本田先生はじめ研究室の皆さんが等身大の写真を準備して取材に応じてくれた話を伝え聞いた。

次の日の朝、ホテルで取材があり、そこではじめて日本におられる赤﨑先生と会話することができた。また、江崎先生との会話もセッティングしていただいた。江崎先生との会話は事前に連絡を受けていなかったので、“江崎です”、とおっしゃられて、“えっ、あの江崎先生?”、と本当に驚いた。8日は共同研究先との打ち合わせの予定であったが、共同研究先の方が取材をアレンジしてくださり、ミナテックの部屋を借りての取材となった。地元メディアの取材もあったが、日本語でも気の利いたコメントができないのに、ましてや英語でなど、できるはずがない。家族の取材ビデオを見せていただいたのは少々気恥ずかしかったが、うれしかった。一番驚いたのは家内への取材である。ロシアのノボシビルスクで日本語教師としてトレーニングしている家内を取材されたテレビ局があり、日本のマスコミの情報収集能力とネットワークは本当にすごいと感心した。サプライズということで、取材の相手が家内ということは事前に連絡を受けておらず、モニターに映った妻を見て、ぐっと来た。

共同研究の打合せは30分しかできず、大変申し訳無かった。

9日、帰りはバスで空港まで向かう予定であったが、あるテレビ局の方が一緒にタクシーで空港まで行きませんか、と言ってくださったので、“それではお言葉に甘えて”、ということで乗り込んだが、後で聞いたところでは、一局が取材対象を囲い込んだ、ということで問題になるらしい。タクシーの中では、私の方から海外に赴任されている記者の方々のご苦労をいろいろとお聞きし、その大変さが良く分かった。

10日の朝、セントレアについたら、数多くの記者の方々と共に、理事の國枝先生はじめ、大学の関係者の方々、とりわけ研究室の皆さんが“ひろし君”の団扇をもって出迎えてくれ、本当にうれしかった。

以上、発表から帰国までのことを、思い出すままに取り留めもなく書かせていただきました。3名に入れていただいたのは、修士課程から博士課程の間に行ったことが評価されたためと思います。名古屋大学で学べたこと、赤﨑研究室で学べたことは、私にとってこの上ない幸運であり、日本の大学教育が世界に認められた証左として誇りに思います。これからの私の責務は、この素晴らしい伝統を大切に継承しつつ、新時代に適合し、あるいは時代を切り開く人々を数多く輩出する教育を行い、若い人にバトンタッチすることと思っております。これからもご指導、ご鞭撻をお願い申し上げます。

2. Laboratory's Eye

工学研究科電子情報システム専攻 准教授 本田 善央

天野研究室のメンバーはノーベル賞発表の時間は、PCにかじりついて更新ボタンを連打するのが恒例です。1年の内で少し変わった雰囲気になりますが、誰も期待はしているものの、本当に受賞されると思っている人は皆無で、案の定例年何もなく終わって行きます。今年は天野先生が不在という事でしたので、万が一受賞された場合に何か面白いことをしたいと思い、等身大パネルを作ることとしました。(後にあれほど役に立つとは微塵も思っておりませんでしたが・・・)3時過ぎからA4用紙に25枚に拡大した天野先生の写真を1枚ずつ切り分けて、段ボールに貼り付けて、倒れないように後ろに骨組みを付けて。学生と共同で2時間半かかった末、ついに出来上がった時には発表まで1時間を切っておりました。ちょうど研究室旅行で余ったビールがありましたので、冷やしておいて、「今日の残念会で飲みましょうねぇ」と言って冷蔵庫にしまいました。準備完了です。

学生さんと一緒に今年はスウェーデンのテレビ中継のライブをプロジェクターで見ることにしました。(これも天野先生が不在なのを良いことに好き放題やってますが、お祭り気分です。)テレビのレポーターが出てきて、スウェーデン語で何かしゃべり始めました。選考委員が英語で喋り始めて、ようやく始まった感じがしました。最初に司会の選考委員の先生が、他の選考委員の紹介をしました。いよいよ発表です。「Isamu△×※◎」・・・学生の歓声で赤﨑先生の名前を聞き取れませんでしたが、何とも言えない達成感を感じました。ここで、少し冷静になって、「静かに!」と言った瞬間「Hiroshi Amano」・・・先程とは比べ物にならない歓声でした。鳥肌が立ち寒気もしました。その後の中村先生の発表は歓声に飲み込まれて聞こえませんでした。皆さんで残念会用に準備したビールは、祝杯になりました。

すぐに、電話が鳴り始めましたが、ブラジルから天野先生のプライベートの電話を教えろという電話でしたので断りました。すぐに広報から連絡が入りあっという間に、天野研の前の廊下はマスコミの方で一杯になりました。いつのまにかインタビューが始まり、パネルが引張だされて行きました。連日のマスコミ報道には学生さん達がしっかり対応してくれましたので、事務的な仕事は可能な限り進めることが出来ました。少しずつ事の重大さに気づきだしましたが、天野先生は帰ってきません。連絡も付きませんでしたが、しばらくしてリヨンの空港での動画がテレビで見れましたので、少しホッとしました。出張を終え、空港から帰ってきた先生はいつも通りの天野先生でした。ふざけて作った「ひろし君おめでとう!」のうちわも笑顔で受け入れてくれました。

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